岡部・町医者・昔の話

岡部・町医者・昔の話

私に物心がついた頃、祖父はすでに引退していた。頭のハチが張った、体の大きい人だった。今でも鮮明に覚えていることがある。ある夜、玄関先に突然、顎がはずれたおじさんが来た。立ったまま「あわわ」と言う姿がおかしかった。父は玄関先で顎をはめようと試みたが、うまくいかない。祖父が、少し曲がった背中を揺らしながら登場し、「よっ」と言ってすぐに整復した。子供心に「腕がいいなあ」と感じ入った。父も「こういうことは昔の医者はうまい」と感心していた。父が40才頃、祖父が70才を少し過ぎた頃の話である。

祖父がなぜ診察をやめたのかと父に聞いたことがある。「大学出の医者が帰ってきて診察しているのに、専門学校出の医者が誤診しては申し訳ない」とすっぱり開業医を辞めたそうだ。その代わりに、学校医や予防接種で忙しい父を助けていた。

さて、明治生まれの医者はいかなる開業医生活を送ったのだろうか。おもいつくままに書いてみることにする。

私の祖父は「董」(「ただす」と書いて「ただし」と読む)といい、岡部町内にある三輪神社(神神社)の神主の末子として明治 14年に生まれた。

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三輪神社は奈良の大三輪(大神)神社の分社として大化の改新の一年前、西暦644年に開闢された由緒ある神社である。兄がすでに神主となっており、東京に出て郵便局に勤めた。時代は日露戦争前夜で、東京で入隊したが、兵舎で訓練中、足に怪我を負い入院するはめになった。これが運命のわかれ道になった。怪我が回復してからもしばらく軍医を助ける役目を負った。

そのときの軍医殿に「君はすじがいいから医者になったらどうか」と言われたが先立つものがなく、大学の先生の書生になり勉強を開始した。書生とは、女性なら女中さんに匹敵する境遇で、先生の家に住み込み、三食を頂く代わりに雑事をこなし、時間があれば勉強するというものである。

昼は書生、夜は夜学生となり、夜間医療専門学校に通った。学校の名前は「済生学舎」といい、現在の日本医科大学の前身で、数年先輩に野口英世がいる。医者になっても今のように総合病院がたくさんあるわけでもなく、開業が普通のコースだったようで、出身地の岡部に帰ろうと思い立つが、当時の岡部は医者の数が多く、いきなりの開業はできなかった。しばらく磐田で開業していた。

ここから先が泣ける話しで、岡部町内の医師一人が引退したという訳で、町内の有志が祖父を迎えに行き、しかも診療所づくりに近所の方々がボランテイア参加してくれた。私が当地で開業したばかりの頃、そのボランテイアに参加した人が存命で、「みんなで石を運び石垣を造った」と懐かしそうにいっていた。その土地は現在の三輪医院の第二駐車場で、大正4年のことである。その翌年、父が生まれることになる。さて、明治生まれの開業医は岡部町でいかなる奮闘を見せるのであろうか。それは次回のお楽しみ。

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