岡部・町医者・昔の話

クレゾールを知っていますか

二代目淳医師が岡部に帰ってきて早々の重大な仕事は腸チフスとの闘いであった。
私が生まれた昭和24年頃、町内に腸チフスが流行し多数の死者を出したことがあった。「ある先生が最初の患者を誤診した、その後一気に流行した。町民みんなが、あの先生の誤診が原因だ、と騒ぎ立てたためにその先生は静岡に逃げていった」と教訓めいて小声で父が私に言ったことがある。当時、どこの村にも「町営の伝染病隔離病棟」(避病院と呼んでいた。医師は地元の開業医が通った)があったが、岡部だけでは間に合わなくなり、広幡地区の病棟を借りた。死者の数はものすごく、死体を載せたリヤカーがひっきりなしに往来したようだ。私の実家の横のお宅でも、何人も死者を出し、おばあさんと孫一人が生き残った家があった。
大学から帰った父は、地元では新人医師ということで、隔離病棟勤務となった。自らも被病するかもしれないという恐怖心があったようで、勤務を終えて帰宅すると、まず衣服を脱ぎ、靴下はクレゾール液につけ、自らもクレゾール入りの風呂に入った(母の言)。そういえば父の体はいつもクレゾール臭かった。

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靴下を消毒する習慣はその後もずーと続いた。往診から帰ると玄関に「ブリキの缶」が置いてありそこに靴下を脱ぎ捨て、消毒していた。母もクレゾール主義者で、私が医院を新築して開業を始めた時、「ヒビテンは効かない、クレゾールだ」、と言いながら、診察中にもかかわらず、診療机や壁にクレゾールを霧吹きで吹きかけていた。おかげで新築の診療所がクレゾールのにおいで充満し、白い壁は黄色化したという懐かしくも困った思い出がある。それだけ伝染病との闘いが染み付いていたのだろう。

隔離病棟時代を知る患者さんからこんな話を聞いた。「ひどい下痢で朦朧としていた。もうだめかと思った。先生が来て、重湯を飲ませてくれた。米の力はすごいね。一口飲んだだけで、手足のすみずみまで力がみなぎるようだった」こんな話もある。
「腹痛で隔離された。三輪先生が来て。これはチフスではない、といって虫下しをもらった。洗面器一杯、回虫を吐いて治った」かなりの混乱ぶりであったようだ。この虫下しの逸話は父も得意気に何回も話してくれた。混乱の中での回虫事件は、新米開業医として「してやったり」の印象的できごとだったのだろう。それにしても、総合病院がないころの地方というものは、こんな風に開業医が支えていたのですね。
よくやった、いいぞ親父!

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