岡部・町医者・昔の話

二代目医師、号泣する

父は大正5年の生まれである。7年前に85才でこの世を去った。お祭と花火とぜんざいが好きな人だった。ちょっと自慢話ですが、当時の新聞の切り抜きによれば、脳ホルモン研究では日本の第一人者だったようである。そのおかげで、召集されたが大学特別研究員となり戦地にいかずに済んだ。戦争中も精神科の研究に没頭していたようで、朝は一番電車で出勤し、守衛さんに「毎日一番ですね」と褒められた(?)話しや、実験が終わったうさぎを食べる日が楽しみだった話しは繰り返し聞かされた。(その日は公表もしないのに色々な研究室から人が集まった)これからという時に、軍医になった弟が28歳の若さで戦死したため急遽、岡部町で開業することになり、準備期間を経て昭和24年開業した。私が生まれた年である。大阪大学精神科講師、兼、和歌山医大精神科初代教授になったばかりでもったいない話だったと本人も言っていた。母にいたっては、「教授婦人になりそこねた」と今でもご機嫌斜めである。学究の徒が大阪を後にして岡部の田舎に帰ってきた、どんな気持ちだったろうか。

静岡市の患者さんのおばあさんの話を紹介する。
「私の父は3年半寝たきりだった。淳先生が大学から帰ってきて往診した。毎日少しずつ歩く練習をしたら歩けるようになった。みんなが奇跡だといった。村中の人が偉い先生が帰ってきたと騒いだ。」「淳先生は、俺を信じろ、死にそうになっても俺がいるから大丈夫といい続けた。」「本人もその気になって歩いた。」すごいぞ、親父。それにしても何の病気なのか。神経難病をリハビリしたのか。おばあさんは続けた。「歩けるようになり何年か元気で仕事をしたが自殺した。」寝たきりの原因はうつ病だったのか。
「自殺した場所は田んぼの先の小屋だった。かけつけた淳先生は革靴のまま泥田を駆け抜け小屋にたどりつき、「何で死んだんだ。せっかく良くなったのに。」と人目をはばからずに号泣した。」「子供心にもありがたいと思ったよ。優しくていい先生だったよ。」あの親父が号泣とは。

開業して間もない、まだ大学の研究の雰囲気が残っていた頃のはなしだから、たぶん専門である精神科の患者さんに対し、精神科専門としてのプライドと情熱をかけて手塩にかけて診たのだろう。「田舎に精神科の光を当てよう」、若き精神科医の張り切りが伝わるエピソードである。その後、精神科医として結構有名になる。「精神病院を作らないかという話は何回もあったが、体が弱いのでやらなかった。」これは何回も聞かされた。本当は精神科で身を立てたかったということか。

得意な話は「ノイローゼ」と「あべさだ事件」だった。

ノイローゼの説得療法はうまかったが、狭い診察室で延々と大声でやられた本人はまいったらしい。今なら個人情報漏洩だ。おかげで周りの人も勉強になったらしい。ともかく話好きだ。診察時間が長くなって困ったとは母の言。外来管理加算5分どころではない。話好きは話がうまい。私が開業して町民健康講座でしゃべったときも、当時の保健婦さんが、「誠先生もお上手ですが、お父さんはもっとうまかった」と私を励まして(?)くれた思い出がある。あべさだ事件を知っている医者は少ないですか。恋しい男を殺し、その局所を持ち歩いていたという猟奇的な女の話です。行為の最中に・・・残念、紙面が尽きました。


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