岡部・町医者・昔の話

さよなら、ハーレー先生

「ハーレー先生は儲かったのだろうか」という読者からの問い合わせがあった。「三輪先生のお宅にはお宝があるはずだ」という税務署のような鋭い質問もいただいた。お宝はない。父が死んだ時も税務署が来て物置を開けて、がらくたばかりでがっかりして帰っていった。唯一の財産は山林である。今でこそ二束三文の山だが当時は高かったと思う。田もあったが農地解放で全て取り上げられた。読者の方々には三輪医院の財産の有無など余計な心配をしないで医業に励んでいただきたい。

さて、明治生まれ医師から大正生まれ医師に話しが移る前に、董医師の思い出をもう少し書こう。

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董医師の晩年はまさに晴耕雨読、座敷に正座しいつも本を読んでいた印象が強い。藤枝の本屋が時折立ち寄り、小説本を交換していた。今でいうレンタルであったろう。私の教育には熱心だった。幼い私を屋根に上らせ落ち葉を掃かせ(危険きわまりないが)、無理やり剣道を習わせ(おかげで腕を折った)、わがままな私の耳を持って持ち上げ振り回して怒り、押入れに閉じ込め折檻した。それでも私にとって、祖父は尊敬の対象だった。にわとり小屋をつくり、にわとりを飼い、にわとりをつぶした。(熱湯をかけて羽をむしるあれです)うさぎをさばいた。(確かうしろ足の先から皮をむき丸赤はだかにした)私に字を教え、将棋を教え、凧の作り方を教えた。空気銃を撃たせてくれた。

その祖父も私が中学2年の夏に死去した。死因は膵臓ガンだった。離れの座敷で毎日点滴をしていたが、縁の下に点滴瓶がずらり並んだところで、祖父が「もう止めよう」と言い、死んだ。83才だった。「止めよう」という声は私も聞いた。父が立ち合わせたからである。点滴を中止して数日後、眠るように死んだ。

骨になった董医師は体格が良かったため骨壷に入りきれなくなり、火葬場の係員が小さなスリコギ棒でがさがさつぶしてやっと全部入れた。(その音と情景は今でもくっきりと思い出す)さすがに山野を往診でかけめぐった人だけはあるなあ、と感じ入った。晩年、膝に水がたまり父がよく抜いていたが、それも往診の勲章らしかった。

祖父のエピソードで最も気にいっているのは「リンゲルのはなし」である。
「戦争中、物資が不足し点滴がなくなった。おじいちゃんは本でリンゲル液を調べ、自分で作製して点滴をやっていた」というくだりである。父は、「とてもおれにはできないよ」という顔をしながら話してくれた。うーん、皆さんはリンゲル液をつくれますか。

恐るべし、明治生まれ医師、その熱意と工夫に脱帽です。

董医師には二人の息子がいた。長男が私の父であり、次男は海軍軍医で戦死している。「弟は陽気で誰にも好かれた。あいつが開業し、おれは研究者になるつもりだった。」と父はいつも言っていた。運命は学究の徒を実践の場にかり出してしまった。果たして開業医として成功するのであろうか。

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