岡部・町医者・昔の話

校医さまに、礼!

オートバイに乗ってさっそうと山道を駆け抜ける青年医師。どんな姿だったのか。砂利道、泥道でゴーグルは必要、ヘルメットはないから皮の丸い帽子、とすればあの「紅の豚」のパイロット姿か。

いや、そんなことよりも大正、昭和初期の保険がない時代、道なき道を分け入り、一日仕事で往診していた田舎の開業医のふところ具合はどうだったのだろうか。

ここに父の時代の請求書がある。「恐れ入りますが、そろそろお支払いをいただきたい」というはがきである。このはがきを出しておいてから集金に回るのである。集金は年に2回、お盆と年末だったようだ。私も幼い頃、祖母と集金に回り、暗い夜道をとぼとぼと歩いた思い出がある。また、私が開業してからの話だが、「先生、昔の分を払ってないんだが、今日は診てくれるかね」というお年寄りがいた。えー、いつの診察代ですか!びっくりした。父の時代になった昭和24年以降でも、「払わずじまい」が多かったと母が言っているので、祖父の時代はもっとひどかっただろう。もらえる人からもらい、払えない人はあきらめる、「赤ひげ」やむなし状態だったと言える。「物納」もあったようだ。私が幼い頃、うさぎを鉄砲で撃って持ってきた人がいた。祖父がさばいたが、散弾銃の玉が取りきれずに残っていて、肉をかむとガリッと噛んだ思い出がある。お風呂場にバケツ一杯のどじょうが置いてあったこともあった。古いブリキのバケツに真っ黒い塊となったどじょうが入っていて、時おり息吸いに上がってくる姿を飽かずにいつまでも見ていたものだ。風呂桶から乗り出し、お尻をだしてバケツを覗き込んでいた姿は、今想像しても笑える。うさぎもどじょうも、全部「物納」だったのだろうか、今となっては「消えた年金」以上に不明である。これが昭和30年頃の話である。最近、この原稿を書きながら診察中にそんな話を患者さんにしてみたところ、「そうです。年末に大根一本でした」と笑ってすまされた。同じ話を大正5年生まれの元助産婦さんにしてみた。「そうでした。お産をしても払ってくれない人はたくさんいました」医者だけじゃなかったんだ。

そんな時代だが、特筆すべきは医者の地位が高かったことである。

ここに祖父が校医を勤めた岡部尋常小学校の写真がある。町長、校長に並んで校医の董医師が座っている。「昔は表を通る学生は、三輪医院の前で皆、帽子を脱いだものだ」父が遠くを見るまなざしで語ってくれたことを思い出す。

なぜ、そんなに医者は尊敬されていたのだろうか。私見だが、「丈夫な良い子供を育てることは、良い兵隊をつくること。だから医者が大切」という意味で校医が尊敬されたことと、医者が年中無休で働いたからであると思う。医者の休みは正月3日とお盆休みのみであった。こういうと偉そうだが、農家がそうだったから医者も自然にそうだっただけなのかも知れない。いや、世の中全体が「休む」ことに後ろめたさを持っていた時代だったのだろう。年中無休で思い出したことがある。私は藤枝聖母幼稚園に路線バスで通ったが、母が休日にお弁当を持たせたことがある。私は幼稚園へ行き、しっかり閉ざされている扉にうろたえ、泣きながら帰宅した。母も年中無休のために曜日感覚が鈍っていたのであろう。

「日曜日を休診とし、当番医を置く」と日本医師会が決めた時、全国紙の新聞で、「医者ともあろうものが、日曜日を休むとはいかがなものか」という論説が掲載されたと父が話していた。日本中が働きまくっていたすごい時代だ。今の皆さんに想像できるだろうか。

一年中働く、一年中看取る、払えないとわかっていても診る、どう考えても「校医さまに、礼!」である。

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