岡部・町医者・昔の話

明治生まれ青年医師、往診で奮闘す

苦学の末に医師になった祖父は大正4年ようやく生まれ故郷、岡部町での開業にこぎつけた。一体、どんな仕事ぶりだったのだろうか。

以前、私が往診や看取りが忙しくて悲鳴をあげた時、父に質問したことがある。「昔の患者さんはどういう風に死んだのか。死ぬ間際は入院したのか」と。答えは「入院したくても病院がなかった。静岡市に2つあったかな。この辺にはゼロ。普段はなかなか受診できない。死ぬ間際に、一度医者の診察を受けさせてやりたい、という程度だった」であった。なるほど、この答えには二つの意味がある。一つは外来が少ないこと、二つ目には、末期は往診で対応していたこと。

「健康保険制度がない、町民のほとんどが農家で現金収入が少ない、だから外来(自費)は少ない。患者さんは車を持っていない、移動できない、だから医者が移動(往診)するしかない」というわけである。

父の時代でも、「ふとんが温まる暇がないくらい往診が多かった」といっていたから、祖父の時代はもっとすごかったのではないだろうか。しかし、往診が多くて儲かったという生易しい問題ではない。道路事情が現在と全く異なり、往診そのものが大変だったのである。

ここに最近発売された「昔の志太地区写真集」がある。見ると、国道一号線はでこぼこ道で牛が大八車を引いている。次のページは今の岡部小学校から焼津へ抜ける道だが、見事なリヤカー道(あぜ道より広いが)である。これが昭和30年頃の主な街道である。大正、昭和初期は一体どんな道路事情だったのだろうか、山間部は想像もできない程、狭い悪路だったのではないだろうか。

以前、野田沢地区(現在は岡部中心地から車で15分)のおばあさんが、「私が小学校のころ、董先生が自転車で毎日往診してくれた。40日経ったところで、もういいにするかと言ってくれた。そしておばあさんが死んだ」「私は岡部まで歩いて薬を取りにいかされたのでよく覚えている」という話をしてくれたことがある。山道を10Km以上自転車で往診したのだ。これでは完全に半日仕事である。

父からこんな話も聞かされた。「青羽根(平家の落人伝説がある)へ往診するときは、ふもとまで行くとそこに山の上からかごが下りてきて、董医師を乗せて山上にかつぎあげる、往診先で酒と食事が出る。祖父は下戸だったので飲んでこなかった」いやいや、飲んでも飲まなくてもこれでは一日仕事である。

写真

そこで祖父は一計を案じる。そうだ、オートバイを買おう。当時の開業医は人力車で往診するのが常だった。そうなると岡部町のような谷(「や」と読む。山と山に囲まれた狭い集落を指す言葉)を抱えている町では、高額な車馬賃が発生してしまう。(三輪医院から岡部町の北端までは15Kmある)オートバイならば人力車代がかからないし、第一、早い。日本製はないからアメリカ製だ
さっそうと山道を駆けていく「ハーレー」、結構話題になったらしい。
明治生まれの青年医師の張り切った気持ちが伝わってくる。
がんばれ、董医師。
さて、その経済状態はいかなるものであったのか。それは次回のお楽しみ。

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