死の恐怖

いよいよおじいさんの臨終の時が近づきました。私とお嫁さんはベッドを挟んで向かい合っていました。ご主人は子供たちを学校に迎えにいっており、親戚もいません。沈黙の時間がしばらく流れました。その時です。突然、ベッド柵がカタカタと音を立てました。ふと見上げると、お嫁さんが柵を硬く握り締め、ぶるぶると震えていました。

「もうじきです。」と告げると、「恐い・・恐い・・」とうめき、涙をはらはらと落としました。

お嫁さんは30代後半の方で、いわゆる介護地獄を経験していました。おじいさん本人は室内に排尿するほどの強い痴呆でしたが、夫は父親の痴呆を認めようとせず、それどころか、「介護の仕方が悪いから父親がおかしくなるのだ」と言っていました。それでは介護に協力するのかと思えば、「父親の衰弱を見ることが恐い」とおじいさんに近づこうともしなかったようです。親戚は親戚で、「介護は嫁の義務」と言い放って顔も出しませんでした。加えて、学童の母親でもあり、家事は全てこなさなければなりませんし、まさに四面楚歌、八方塞りでした。
しかし、そんな中にあっても、介護方法などをよく質問していましたので、「気丈な嫁、しっかり者」と私は思っていました。訪問看護のカンファレンスでも同じ意見がでました。

死を前にして、悲しみに泣く人はよく見ますが、恐怖に震える人ははじめて見ました。何が恐いというのでしょうか。死の形相をみるのが恐いのでしょうか、一人で看取ることが恐いのでしょうか、それとも、死そのものが恐いのでしょうか。
私は考えました。「長い間続いた介護地獄が今、終わろうとしている、介護は十分過ぎるほどやった、介護者にとって、納得のいく「死」が訪れるはずであり、落ち着いて「死」を迎えられるはずである」と。しかし、この考えはどうも間違っていたようです。死を前にして、私は第三者のままで存在し、彼女は突然、当事者になってしまいました。そして、
嫁としての責務を果たすことが終了しそうになった時、彼女は深い悲しみに襲われたようです。悲しみの奥深さは私の理解を超えていますが、目の前の恐怖は取り除いてやろうと思い、すぐに訪問看護婦を呼び出し、夫が帰宅するまでの間、介護者を介護するように頼みました。

この判断が正しかった否かは未だにわかりません。看護婦の報告では、しばらくしてご主人が子供を連れて帰宅し、親戚も集まり、特に問題はなかったとのことでした。
「立派な介護者」の一瞬の涙。皆さんはどんな思いを抱きますか。