雲上の往診

岡部町に詳しい人は知っているでしょうが、私の診療所から片道15Kmの山の上に、昔、平家の落人が隠れ住んだという伝説を持ち、今でも京都のみやびな調度品が数多く残っている地区があります。標高は高草山と同じで、一年に何回かは雪が降る場所です。片道30分の山道をゆるゆると登りつめると、一気に視界が開け、正面に高草山、はるかかなたに焼津の海が見え、日によっては雲が足元に漂い、まさに雲上の別天地です。 ある日、その集落の方から往診の依頼がありました。聞けばかなり状態が悪く、明日をも知れぬ命とのこと、早速往診を開始しました。車を坂道に止め、日当たりの良い縁側から中に入りました。

「こんな遠くまで、すいません。」「いえいえ、大丈夫ですよ。少し遠いけどここは町内です。」などと言いながら診察を終えました。その後状態は悪化し、山道を車で飛ばして何回も往復することになりました。雨の日、風の日、時には暗い夜道でたぬきに出会いながらの往診となりました。

ある冬の真夜中にその方は息を引き取りました。死後の処置をして、いとまごいをし、玄関を出るとものすごい朝焼けでした。吹き渡る風、はるか高草山より顔を出そうとしている太陽、生まれたばかりの光に透かされて色を変えつつある空と雲、まだ黒い高草山の山容は威風堂々としていて、学生時代に登った南アルプスの夜明けを想いだしました。

正直言って、遠距離、連日往診は大変でした。特に土曜日の夕方や、日曜日になると、焦燥感さえ覚えました。たった一人の人間のために時間を使い続ける焦燥感です。しかし見事な朝焼けと冷気は全てを流し去りました。長い様で短かった「雲上の往診」はこうして終了しました。